【私の宗教の骨子とさせていただきます】
私の宗教では愛とは神にしか管理できない概念であり、行なう者であるとしています。神にしか管理できないと云うことは、行なったことが結果でしか分からないとということです。結果が善であれば最初の動機、即ち行いに関する想いが愛であったと云うことです。従って結果が悪わるければ動機が貪りだったことになります。貪りとは悪意をもって行なう自覚している行為とは違います。自覚して悪を行なう行為は悪徳です。貪りとは他人の為に行なう行為ではなく自分の為に行なう行為です。従って愛とは他人の為によかれと想って行なう行為でなくてはいけません。はじめに他人の為によかれと想って行なったことが結果が迷惑になったり、危害を与えることもあります。神の判断は自分の想いとは違っていたことになります。
しかし、神は間違ってはいません。自分が間違ってるのです。反省しなくてはいけない課題です。反省とは悪行、即ち自覚して行なった他人を害する行為を拾い出す行為は小学生の反省です。熟練した反省は結果の反省ではなく結果を視て動機を反省することです。他人によかれと想って行なったことに自分の為によかれと想って行なったことがあるか?ないか?の反省です。上記反省のできない人は愛を説いてはいけないのです。正確には説いてはいけないのではなく説くと自分に不都合が起きるので説けないのです。以上から己の為に行う行為即ち、打算、計算などの自己保存の動機で行なう行為は貪りになりますが悪徳にはなりません。誰でも行なってよいのです。
要するに他人に迷惑をかけなければ何を行なってもよいと云う思想です。私の宗教では肯定しています。但し、上記考え方は人間で有る以上必ず間違いをおかすことを前提としなくてはいけません。不測の間違いを犯さないためにはヤハリ反省は必用です。又唯、貪りにならないだけの行いではでは徳性(光とも言う)は得られません。徳性の量は愛と貪りと悪徳の差し引き勘定になります。徳性を磨くと自然に他人の為になることが行なえるようになります。運命も好転します。理由は神の管理する部門ですので私には説明できませんが体験的な事実です。しかし、落とし穴もあります。特に宗教団体に入ったりすると徳を積む(佛教用語)と目的にする要素が出ます。そうなると動機が建前と本音に分かれることかあります。
即ち建前では人のためと想っていても無意識の内に徳を積むことに傾く想い方です。以上は欺瞞になり徳の料はマイナスに働きます。反省しなくてはいけません。ここが上級の反省個所です。又、修身を目的としたものは私ではコメントできません。各個人の良心の問題です。私の宗教では仏教の徳を積むと表現するところを徳性を磨くとさせて貰います。理由は量の過多にこだわりを捨てて性質の変化を目的にするためです。性質の変化を例示すると他人を指導することが容易になったり、指導力が感化力になったりするケースです。愛についてはこのページでは愛とはなにか?の説明は行ないましたが愛そのものは説いてはいません。愛は説く者ではなく行なうものだからです。愛や信は私の宗教では例示しています。